釣り人を「魚釣りをする人」と定義するなら、この記事は決して全ての釣り人に当てはまるモノではない。だけど、釣り人を「魚釣りを追求する人」と定義するなら間違いなく全ての釣り人に当てはまるモノだと思う。
今回は、ここから先は後者の釣り人が読んで共感してくれると仮定して話を続ける。
「釣れるなら何でも楽しい」
そんな釣り人には退屈な内容かと思うので、ここで読むのをやめてもらった方がいい。そんな今回のログは…
【持論とイメージ】
持論とイメージ。
釣りはこの二つを強く持つ事が肝心だ。
“釣り”いうカテゴリーの趣味の中には、ブラックバスを釣る人、イカを釣る人、シーバスを釣る人といる訳だけど、そのどれもが独自のメソッドや道具が存在している。
そして“ブラックバスしか釣らない人”や“シーバスしか釣らない人”や“ショアorオフショア”とそれぞれが独立し更にカテゴリーが細分化された釣りはすごくニッチな市場を持つ。
同じ趣味も持つ人達が趣味について会話をしているとして、それぞれがその会話の内容が理解できない事は少ない。サッカーが好きな人とサッカーが好きな人は会話を理解できるハズだし会話が弾む。野球もしかり。
しかし、釣りは違う。
「狙う魚種が違うから話が合わない」なんて事はザラにあり、更に魚種が違えば共通点も少ない。
だけど釣りをする上で、釣り人が目標とするのは当然ながら魚を釣る事。そこに関してはどんな釣りにも共通する。魚釣りをしているのだから、魚を釣る事を目標とするのは当然だ。
その魚を狙って釣る為に必要なのが今回のテーマ。持論とイメージ。
持論とイメージがある事で“釣れた魚”ではなく“釣った魚”に触れる事ができる。逆に言えば持論とイメージが無ければ、いつまでも“たまたま釣れた魚”しか触れられない。
その違いは一匹までの過程。
むやみやたらに投げて釣るのではなく、度重なる釣行で得た経験や情報をインプットし、今日の釣り場でアウトプットし再現する。
しつこいようだが、その為に持論とイメージが必ず必要になってくる。
ではどうやって持論を持つのか…
そもそも持論とは…
まずはそこ。
持論とは
“持論とは、ある事に関して主張しているその人独自の意見。持説。”とある。
要は釣り人それぞれにあるモノで必ずしも持論と持論が一致するモノではない。つまり、持論は人と違っても一向に構わない。
「人と違うから間違いなのか?」
そんな事は絶対にないし、考えるだけ無駄である。
“持論とは、ある事に関して主張しているその人独自の意見”なのだから。そして今は正解なのかもわからない。結局のところ答えは全て魚から帰ってくるモノだから。
そして持論の持ち方。
その日その時その手で触れた一匹一匹に無理矢理理論付ける。“なぜ釣れたのか”。それは使ったルアーやアプローチ方法や潮回りやフィールド。できるだけ詳しく振り返りそれをインプットする。そして、それらを少しづつ束ねたモノがリンクした時に持論になる。それが僕の持論の持ち方。
ここで大切なのが、持論はブレないようにする事。他を吸収する為や、自分が間違いと判断した時の軌道修正は必要。ここで言うブレとは他人の持論に左右され右往左往する事をさす。
持論は一貫して自分の意見に忠実である事が大切。再三言うが、持論とは、ある事に関して主張しているその人独自の意見なのだから。
そして強い持論を持つと、比例して強いイメージが生まれる。次はそれ身体を使い道具を操作してアウトプットする。現場で再現するのだ。
ただ、その時はそれが正解かどうかはまだ重要ではない。
その答えは次か…そのまた次か。早いか遅いか。いくら時間を費やす事になるのかはわからないけれど、後の一匹が身をもって教えてくれるはずだ。
それを終わりなくひたすら繰り返す事で、持論とイメージは更に強固なモノとなり釣り人は少しづつ魚へ近づけるのだと僕は思っている。
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